なめらかな社会とその敵 | 鈴木健
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この複雑な世界を、複雑なまま生きることはできないのだろうか。
リベットの解釈によれば、意志というのはいわば拒否権である。自由意志というのは、複数の並行して開始される運動プロセスの中から、適切でないプロセスを拒否する機能にすぎないという。だから自由意志は、運動の準備電位の前でなく300ミリ秒後に起こることになる。 人間を合理的で機械的な存在として他の動物と異なるものとしてみなすのではなく、感情的で身体的な動物として延長線としてやや特殊な能力を進化的に獲得しただけの存在に過ぎないと次第に考えるようになってきた。
個人に矛盾を認めず、過度に人格の一貫性を求める社会制度は、人間が認知的な生命体としてもつ多様性を失わせ、矛盾をますます増幅させてしまう。そして、一貫性の強要は、合理化、言い訳を増大させ、投票結果を歪めることになる。
権力のあり方が、学校、監獄、病院、工場といった塀された空間における規律訓練から、生涯教育、在宅電子監視、デイケアといった時空間に開かれた管理へと変容していくという。(ミッシェル・フーコー)
メディアはメッセージを運ぶ箱のようなもので、メッセージはメディアと独立に存在しうると考えられていた。マクルーハンは、メディアそれ自体が新体制を持っており、上に乗るメッセージ以上の影響を人々に与えてしまうことを見抜いた。彼は、それを「メディアはマッサージだる」というアフォリズムで表現した。
アラン・ケイは一貫した思想の持ち主であり(略)「『すべて』の人々がメッセージを作るだけでなく『メディアを作る』ことができるようになるためにはどうすればいいか」というひとつの仕事に集約される。
コンピュータとは、「計算する機械」という意味から「世界の何らかの自然現象をノードとして切り出してネットワークでつなぎ、入力に対する出力として人間にとってある種の意味作用を安定的に形成できるもの」へと変容しつつある。
ゲームプレイワーキングがもたらす帰結は、このような(消費を個人の楽しみとして解釈することも、資本主義の欲望機械に駆動されたものとしてみることもできる。)「現実」の複数化の加速である。
20世紀は「正義」の時代であったが、21世紀は「ゲーム」の時代になるであろう。
正義の世界では、人々はひとつの共通の現実を生きているという共通認識を強いられる。ゲームの世界では、人々は複数のばらばらでパラレルな現実を生きることができる。
パラレルワールド化により、人々がより異なる認知世界を生きるということは、複雑なまま生きることを可能にする。
だが、コンフリクトの多様性、複座うせいも爆発的に増大することになる。これらのコンフリクトの解消は、いままでのような社会制度では太刀打ちできないだろう。
なめらかな社会というよりも、複雑で動的な社会、一言で言うならリキッド化する社会という感じ。そして敵というのは自分自身が含まれている気配があった 複雑な社会をどう支えるかという点でいま読んでよかった